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チベット旅行記 その八

2002年 7月7日 日曜日 七夕

今日は、とうとう朝からジョカン(大昭寺)に行くことに。
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ラサの中心にあるチベットで最も聖なる寺院で、チベット各地からラサを訪れる巡礼者たちは、このジョカンに詣でることを最大の目的にしています。ドミからは歩いていける距離にあるので、楽チン。ジョカンに着くと、朝7時ごろという早い時間から、巡礼者たちが五体投地をして祈っている。信仰とは、ここまで気合の入ったものなのだろうか。神聖な雰囲気が漂う。しかし、その横では、チベット族商人たちも商いを始めだしていて、活気あふれる朝になりつつあり、実に面白い。売っているものは主にバターとお香などの仏具だ。巡礼者と一緒にジョカンを一周したり、巡礼者を観察したりと、ジョカンの門が開く8時30分まで待つ。時間通りに開かないのはやはり中国だからなのか?なんてことを考えているうちに、正面ではなく右脇の扉が開く。入って左側にマニ車が見える。とりあえず、いつもの右回りマニ車を回していく。一周し終わり、とうとうジョカン本堂に入る。中は蝋燭の明かりだけで、思ったより暗い。長年に渡ってだろう、巡礼者たちが途切れることなく継ぎ足した大量のバターが蒸発し壁に付着したのか、触るものすべてにぬめりがある。その独特のぬめりは、空気からも感じ取られる。そして、目が慣れていくにしたがって、壁画に描かれた仏画が見えてくる。そういう状況を含めさすがラサ一番の寺だけある。どことなく空間そのものに威圧感がある。一番奥の12才の頃の釈迦牟尼を模ったと言われる釈迦牟尼像を祭る釈迦堂は、かなり見ごたえがあった。思わず、お辞儀してしまうような重圧感。じゅんじいと二人で何かを感じ取ったのか、本来なら一周のところを二周する(笑)。巡礼者にとってはえらい迷惑な観光客だが、もう一周してでも目に焼き付けておきたい、そんな釈迦牟尼像だった。二周終わったところで、僧の一人にもう出て行きなさいと目線で合図を送られる。入り口のほうを見ると、順番待ちをしている巡礼者たちが大勢いた。本当に悪いことした、ごめんなさいと仏に祈った。外に出て、トゥルナン寺の屋上まで登る。景色がよく、ポタラ宮も遠くに見える。サンからの煙が霧のようで、また、早朝の雰囲気をいっそういいものにしている。屋上から下を覗くと、チベタンでごった返していた。ちょうどそのとき、テレビクルーのワゴンが3台ほど無理やり、チベタンのいる中を通っていった。車にチベタンが群がり、ちょっとした人だかりになっていた。(今思うことなのだが、このチベット旅行を終え日本に帰ったときに、テレビで「片岡鶴太郎 チベットへ行く!」のようなタイトルの番組がやっていて、その片岡鶴太郎がチベットを訪れたときと僕らが旅行したときがちょうど重なっていた。もしかしたら、あのテレビクルーらしきワゴンは、彼らだったのかもしれない。)

昼食をとってから、デプン寺に向かう。デプン寺には、山の麓から耕運機に乗ってちんたら登っていく。デプン寺はかなり大きな寺だった。多いときには七千名を超える僧侶が修行をしていたという。僧の家と兼用なのか、隣接しているのか生活とかなり密着しているようだ。相変わらずどこへ行っても親切な僧がこっちだよと迎えに来てくれた。
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デプン寺には犬が多いと指南書に書いてあったが、ほとんど看られずいたとしても人間慣れしていて、恐れるに足らずだった。セラ寺と変わらず、迷路のような道に「PLEASE COME THIS WAY」と書かれていたのでそのとおりに進む。午後を過ぎたからなのか残念ながら戸が閉まっていて看れない寺のほうが多かった。文革で破壊されたモノなのか単に古くなったからなのか山の上のほうの寺は修復作業が行われていた。彷徨いながら歩く。相変わらず、容赦のない日照り。途中休憩を挟む。
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道すがら老いた僧に出会った。祖父ちゃんぐらいかな?彼に旅行人ノートを見せると写真欄のカンリンポチェや僧の写真を見て、何かを呟きお祈りをしていた。その光景を前にして、なんて信仰深いのだろうかと感動した。カンリンポチェの巡礼者に無事にたどり着けるようにとお祈りをしてあげたのだろうか。とにかく、あの光景は目と心に焼き付いて離れない。
デプン寺では、年に一度の祭りのときに、巨大タンカを飾る大きな大きな祭壇があるらしい。さっきの老僧に、巨大タンカの祭壇の写真を見せいく方向を教えてもらう。「トゥジチェ」と老僧に別れを告げ向かう。祭壇というよりは、大きな鉄の足組みがあっただけだった。回りを羊がメェメェないていた。その後は、写真を撮りながら、出会った人に「タシデレ」と声をかけながら気ままに進む。行けないといわれたいた修復中の寺にも潜入したりと(ここは眺めがよかった。)、ホント自由に行動した。看るものも看たということで、また耕運機で下る。実は、途中にもうひとつ寺があったらしいが、知らなくて行くことができなかった。このときで15時で、帰りのバスにもなんとか間に合い帰ることができた。帰りのバスでは下車するタイミングを間違え、ラサ市内を二周することに。そのとき、たまたま紅灯区を見つけ、ラサにも有るんだなと驚いた。ホテルに戻ると、日本人に出会った。下痢が止まらないらしく、あだ名は「下痢君」となりました。
夜には、売店のおじちゃんと仲良くなり、文革やチベット侵略、第二次大戦などについて、チベット族と日本人の視点から熱く語りあう。このときおっちゃん自家製のビールを飲ませてくれ、物凄く嬉しかった。名前はなんと言っただろうか。バリビールだったかな?ついでにデジカメも充電させてもらう。おっちゃんとは、チベットでは口外できないような本音を交えて熱く語り合った。祝いたくても祝ってあげられない人の誕生日が昨日だったと言った。なんだかとっても悲しい気持ちだった。けど、こんなことを打ち明けてくれるなんてすごい嬉しかった。このドミの売店のおっちゃんは最高だ。20歳の七夕の夜に、好い思い出がまた一つできた。

チベット旅行記 その七

2002年 7月6日 土曜日

今日も朝から、高山病のせいで調子がよくない。
昨日の余計なお手伝いが響いたのだろうか。昼間で寝てしまう。
じゅんじいが財布をなくしてどっと疲れた(笑)<よく覚えていないが日記にはこうかいてある。
昼食後に、今日はノルブリンカに行くことにする。
ノルブリンカとは、「宝の公園」という意味で歴代のダライラマが夏に避暑をした離宮だ。1路バスに乗り、途中、ノルブリンカで近くで降ろしてもらう。そこからは徒歩だ。
ノルブリンカは思ったより広く、チベットにしては緑が多い。動物園まであった。ちょうど運悪く綿の木から綿が離れる季節で、綿がいたるところに飛んでいてちょっとうざかった。
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広い公園内を迷いながらぶらぶら歩くと、ようやく目的の離宮に着いた。途中、日本人のツアー客、見た目はお金持ちの中年旅行客の団体にあう。みんな片手には酸素ボンベを持って、チベット旅行とはさして関係ないような話をしながら見学していた。そのお年でよくぞチベット旅行を選択したその勇気は認めるが、チベットまできてゴルフスコアの話をするのはどうかと思うが。久しぶりに、"日本人"に出会った。
ノルブリンカ御堂のメインは、ダライラマが使った寝室、応接間、風呂やトイレ等が見ることができ、どんな生活を送っていたのかを知ることができる。壁画や扉など一つ一つに綺麗な細工、工夫が凝らされていた。西洋のような大味な造りの建物ではなく、日本風の小さく細かい造りに、少し懐かしさを覚えた。もうしばらく日本に帰っていないな。
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お土産屋にもより、たくさん掛かっているタンカを下見。病気で入院中のじいちゃんに、薬師仏のタンカを買って行こうと決めていたので薬師仏のタンカを集中して下見。薬師仏のほか、煩悩を断ち切ってくれる仏など本当にいろいろある。
チベットでは薬師仏を前に祈れば、病気が治ると信じられている。チベットの病院には必ず、薬師仏のタンカが掲げられているそうだ。
しかし、その値段に少し驚く。最低でも600元もすることがわかり少し戸惑う。まだ時間もあるし、他も見てみたいので、今は我慢することに。
ノルブリンカを出た後は、街を散策。ラサ市内を流れる川を見に行く。
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連日の雨で川の水量が多い。この川がアジアの大河の源流だとは思いもしない。途中、髪を切りたくなり、床屋へ入るがどうもうまい具合にいかず。海波(ハイボー:中国人の友達)のような髪形になってしまった(笑)。
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夜、ドミで知り合いになった西洋人に今日はダライラマ14世の誕生日だということを聞く。
ダライラマはこのチベットのことをどう思っているのか。この聖地を無理やり開拓するのだけはやめて欲しい。
満天の星空の下、少し感慨にふけってみた。

チベット旅行記 その六

2002年 7月5日 金曜日

朝早くからジョカンに行く予定を立てたのだが、どうも自分の体が調子悪く、昼まで寝てしまう。ジョカンは昼12時までしかやっていないので予定変更。ラモチェとセラ寺に行くことにする。
まずは、ラモチェへ。人力車に乗り訪れたラモチェは石畳の市場のような町並みの中に突如として現れる。ラモチェの中に入るとすぐにバターのあの臭いがした。初めに寺の入り口に有る大きなマニ車をまわし、ラモチェ本堂を囲むマニ車を回した。張り切って全部まわしたので手が痛くなった(笑)。ちなみに、マニ車は寺の周りを時計回りにまわりまわす。
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その後、本堂に入り、ラマの修行を見学。お経が読み終わり、休憩に入った時にラマと少し話をした。何を話したのか特に覚えてないけど、楽しかった覚えはある。

次に、ラモチェの前からタクシーを拾いセラ寺へ。セラ寺へ向かう途中、外の景色を眺めて思う。「あの山って全部富士山より高いか、同レベルなんだなぁ。」壮大な眺めだ。セラ寺に到着。なんだか静まり返っている。迷路のような道をあちこち歩いて、寺を一つ一つ見ていく。
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上写真右のようにしてお湯を沸かしていた。やかんが沸騰していたことからも、やはりここは日差しが強い。空が近い。途中ご飯を食べているラマ僧を見かけた。「もう、そんな時間か。」買って来たスニッカーズを片手に一休み。静かで快晴。映画のような光景が前に広がる。
「ホント空間がここだけ違うよなぁ。」じゅんじいとそんな話をしながら、また迷路のような細道をたどって行く。
しばらく行くと、なにやらガヤガヤと声が聞こえてきた。声から察するに、一人や二人ではない、大勢いることがわかった。一角の囲いの中に入ると、そこにはたくさんの僧が、二人一組でなにやらやっていた。そう。セラ寺名物、ラマ僧の「問答」だ。片方が立ち、片方が座っている。立っているほうは、大きな声で何やら語りかけ、パン!と大きな音をたて叩いた右手を座っているほうに差し出す。これが問いの形だろう。そして、すぐに座っている僧が答えを、短い言葉で返している。そんな僧がざっと見渡して、100人ぐらいいるだろうか。庭が僧で埋まっている。皆でパン!と手を叩きながら問答をやる姿は圧巻だった。
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しばらく、問答を見てから、また御堂回り。どこの御堂にも熱心にお祈りをする人が必ずいて、つくづくチベット仏教のすごさを感じた。更に凄みを醸し出しているのは各御堂に祭られている禍禍しい仏像や煌びやかで薄汚れたタンカだろう。実に怪しげで、いやらしい。チベットのどこへ行ってもあるそれらは、中でも御堂に有るものはまた違っていて、ひと際異彩を放っているのだ。
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また、迷路に戻り歩いていると、今度は歌声が聞こえてきた。どこから聞こえてくるのか?迷路の中からは、上下左右から聞こえてくるように感じる。遠くからは問答の声も聞こえてくる。が、それでもしっかりと歌声が路に迷っている僕たちを案内する。ブレーメンの音楽隊のようだ。照りつける太陽。不思議なチベットの空間に閉じ込められた感覚。閉じ込められても心地よい牢獄だ。さまざまな形容を考えている間に、じゅんじいが「あれじゃないっすか?」と上を見上げる。あ、ホントだ。屋根で何やらやっているではないか。「ヨーオーヨー、ソーラヘレヘサー♪」女性たちが数人見える。何やら手振りでこっちにあがって来い!といっているようだ。早速、抜け道を教えてもらいなんとか御堂の屋根に登ることができた。どうやら御堂の屋根の修復をしているようだ。女性と男性に分かれて、砂利(アガチャ)を木の棒と石で作った道具(パド)で地面を固めている。独特のリズムで歌を歌いながら土を固めている。言うならば道路の舗装のような作業をしている。
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「ヨーオーヨー、ソーラヘレヘサー♪」外国人が珍しいのだろう。興味深げにこっちを見ている。二人もその視線に耐えられなくなり「タシデレ~」の一言。その言葉で向こうの警戒心が解けたのか、「一緒に作業をしないか?」と誘われる。というか、無理やり道具(パド)を渡されやることに。
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リズムは取れるが、一緒に歌うのはとっても難しいが、見よう見まね、聞きよう歌まねでやってみる。なんでも勢いでやってみれば何とかなるもので、いつの間にかみんなの笑いをとるぐらいのことができるようになっていて、気がつけば高山病も忘れ、屋根の上の修復作業が楽しくなっていた。後になって気づいたことだが、容赦なく照りつける日差しの下に行うあの作業は重労働の何ものでもない。しかし、彼らはその重労働に耐えるだけの方法を知っているのだ。歌を歌いながらリズムにのって、さもダンスを踊り楽しむようなあのやり方は、辛い気持ちを忘れさせてくれる最善の方法なのだ。機械を使えば、効率もよく楽であるけれども、20人ぐらいでああやって一日かけて楽しくやるのもいいもんだと思った。
屋根の上からは、ポタラ宮が遠くに小さく見えた。後ろにはセラ寺の本堂。見渡す限りの絶景がそこにはあった。ヒマラヤ山系に囲まれている。気持ちがいい。
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作業が休憩に入り、なかなか通じない中国語とジェスチャーでコミュニケーションを図る。バター茶を勧められたが、それは断った(笑)。うまく言葉は通じないけれど、デジカメで撮って見せてあげると、すごい喜んでくれた。記念に一枚撮ってあげるよとカメラを向けると、気さくなおっちゃんがポーズを取ってくれた。なんて明るい人なんだろう。底抜けに明るい笑顔だ。
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そんな普通は経験できない貴重な体験をした。世界遺産のセラ寺の修復作業に携わった日本人が二人いたことをここに記録しておく(笑)。
市内に戻り、この旅の目的「鳥葬」について、ツアー会社に問い合わせに行く。どうやらそういう闇ツアーがあるようだ。また後日話を聞きに来るということにした。ホテルへ戻る。

今日も、高山病の洗礼を受け、眠れなさそうだ。

チベット旅行記 その五

2002年 7月4日 木曜日

朝からメンバー全員、体がだるいという症状を訴える。これが高山病か。
ガイドブックのマニュアル通りに行動。マニュアルには多少つらくても動いたほうがいいと書いてあった。
体力を消耗させず、適度に運動と言えば、ウィンドウショッピングだ!ということになりジョカン周辺を見て歩く。もちろん、ちょっとした買い物もしつつ。
早朝から容赦の無い日差しがボウズ頭を照り付けるのを防ぐため、まずは似合わないのに麦わらウエスタンハットを買う。さっそく頭に載せてみるが、じゅんじいに似あわねぇと笑われる。個人的には気に入っていたんだが・・。

ジョカンの周りは朝から大変賑わっていて、チベット人の聖地と言われるだけあると思った。マニを片手に回しながらジョカンを半時計周りや時計回りにまわっている。後で知ったのだが、宗派によって時計回りとか反時計回りとか決まっているらしい。
チベット風味の町並みを、高山病で重くなった体を支えながら見回り観察。
石を積んで建てた家はチベット独特で、日差しを避けるためなのか壁を白く塗ってある。西欧には行ったことはないが、それに近いのかなと思った。門には、これまたチベット独特の〝のれん〟が掛かっている。一目見たときから、これは絶対に買うぞと決めた。今思えばだが、もっと買っとけばよかったな・・。
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ホテルに戻り、メンバーで談笑していると、偽装ツアーで一緒にラサ入りしたあのアメリカ人たちが、マハトマガンジーの若い頃のようなインドネシア人を引き連れやってきた。そして、彼らは開口一番「エベレストを見に行かないか?」と誘ってきた(笑)。聞くに、ツアーを組み値段を下げる頭数にあとちょうど3人足りないらしく、しかも、出発は明日にしたいから今決めてくれと言う。事が急すぎるのでちょっと待ってくれと時間を貰い、相談。装備が薄いという点で悩んだが、こんなチャンスは今後ないかもしれないという若気の至りが勝りメンバー全員承諾し、エベレストB.Cへの旅が決定。一人当たりの値段がリーズナブルだったことや、ラサ入りして間もなかったので今後の予定にワガママがきいたのも大きかった。まさか、そんなところへ行くとは思ってもいなかったメンバーたちは急いで非常食を買い、個人的には防寒対策のためにティンバーランドのパンツを購入。全部で300元近くかかった(泣)。しかし、命に関わるかもしれないことなので仕方ないと諦め、買ったからには思う存分使ってやるぜと心に誓う。しかし、そんな準備が終わったころ、メンバーの一人が高山病でギブアップ宣言をする。「は??」病状が悪化してしまったら皆に迷惑かけるかもしれないということで、結局行かないことになった。これは困ったと、あのアメリカ人たちのホテルまで行き事情を説明。アメリカ人たちも困った顔をして何やら英語で話して、「じゃぁ今回の話は無かったことに。彼女をちゃんと見てあげな。」ということになり、この話は無くなりましたとさ・・_| ̄|○

まぁ仕方ない。こうなったら予定通りに行動すればいい。300元は痛かったが(泣)

そんなドタバタした一日が終わった。

チベット旅行記 その四

7月3日 水曜日 憧れの地チベット

朝9時に起床。旅行社が用意してくれたタクシーに急いで乗り込む。
このタクシーの運転手が遅れてやってきたせいだ。あやうく飛行機に間にあわなくなるところだった。
飛行場で昨日のメンバーと合流。残りの金を旅行社の派遣してきた人に支払う。
ここで旅行社の仕事は終わり。すごい仕事だ。影でどんな努力をしたのかわからないが、表面だけ見ると超楽な仕事としか受け取れない。
あとは、パーミットがない不安と共に飛行機に乗り込む。
ここで一つ忘れられない思い出がある。それはお気に入りの万能ナイフを失ったこと。
失ったと言うよりは自分のミスから起こったことなので文句は言えないのだが・・。
搭乗のときに万能ナイフを間違ってポケットに入れっぱなしにしてしまったのだ。
大きい荷物はすでに預けてしまった後で、しかも、時間も無い。。。
暫くあたふたした挙句、泣く泣くゴミ箱へ捨てることにした。オーマイガー。
思い出のしなだっただけに、あの悔しい思いは一生忘れない。

成都からラサまでは飛行機で2時間。この日は快晴で飛行機の中から下界のすべてが見えた。
ヒマラヤ山系の山や湖がすぐそこにあるかのように見え、とても綺麗だった。
神様が創ったジオラマを神の視点から見ているとでも言うべきなのか。芸術作品を見ている気分になった。
神様が実在するなら、おそらく趣味はジオラマだろう。
そんなことを考えながら2時間、首を痛くするまで下界の様子を見ていた。
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そして、とうとう念願の聖地に降り立つ。
ラサ空港は規模が小さく、飛行機が空港と直接ドッキングすることはないので、飛行機から降り空港へ歩いていかなければならない。
飛行機から一歩でると、そこには突き刺さるような陽射しとチベットブルーの蒼空が待っていた。
憧れの地ラサは、太陽が近く、空が近く、雲が近かった。とにかく、天と近い。
ここが「神の地か。」そう思うとすべてが神秘的に見えてきた。
歩きながら空気が薄いという話を思い出し、思いっきり深呼吸してみるがそうでもないようだ。
いつ高山病にかかるのだろう。チベットには何が待っているんだろう。
そんな不安と楽しい気持ちとチベットに着たぞー!という感動が入り交ざり興奮してくる。
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ラサ入りして、目的を達成したアメリカ人たちは軽い挨拶をし去っていった。
アメリカ人のああいうあっさりとした行動にはある種の拒否感と尊敬を感じる。
目的を達成したらそれでおしまい。あれをアメリカンスタイルと言うのだろうか。
日本人にはない感覚だ。日本人との違いを再認識する。

空港からラサ市内までは離れていて、タクシーかバスで移動することになる。
所要時間は大体1時間半。
とりあえず、ガイドブックに載っている一番安いドミトリーのあるスノーランドホテルに向かうことにする。
そのホテルを知っていたタクシーの親父を見つけ送ってもらう。
騙される心配をよそにタクシーの親父は結構いいヤツだった。チベット族だったのかな?
ホテルに着き、パーミットのことを心配し、ドキドキしながらフロントへ。
部屋があることを確認し、チェックインの手続き。
その時とうとう許可証はあるか?と下手な中国語と流暢な英語で聞かれる。
心では「終わったな。」という言葉が響き、かなり焦る。
ここまで来て帰れといわれたら、、と不安が広がる。
「待ってろ」と一言残し、フロントの人が後ろに居た人と何か話している。チベット語なので聞き取れない。
しばらくして、許可証がなくても泊まれると言われ安心する。荷物を持って来いと部屋に案内してくれる。
このとき思ったのだが、許可証っていったいなんなのかということだ。意味があるの?と。
まぁその分得したので深くは考えないでおこうとそのときは思ったが、今思えば、結局、中国が外国人から金を取りたいだけなんだろう。
外国人料金などの不平等条約は撤廃されたはずなのだが、あの手この手と方法を変え外国人から金を取っているのが今の中国の現実だろう。

スノーランドホテルは、チベット人が経営しているらしく、従業員はすべてチベット人だ。
日本人と思われる人たちや、韓国人、他欧米系の人たちもたくさんいた。
ジョカンまで一番近い安ホテルとして有名で、この後わかるのだがいろんな意味で好い位置にあった。
ジョカンまでは歩いて5分ぐらいだったか、忘れたがとにかく近い。

荷物を置き、部屋で一休み。暫くしてホテルの様子を見に行く。
ここはホテルと言うか山小屋といったほうがぴったりくる。
遠くには険しい山肌がはっきり見える山が見え、相変わらずのチベットブルーの蒼空があった。
この頃から頭が重くなってるなぁ程度の感覚が出てくる。
始めに高山病だと意識したのはホテルの階段を登っているときだった。
一瞬、後ろによろめきそうになってようやく「あ、これが高山病の初期症状かな?」と確認する。
それからは、とにかく歩くだけで息苦しくなる。動かなければなんともないのだが、歩くだけ階段を登るだけで心臓がドクドクし、頭がぼーっとする。
生まれてはじめての経験だったが、噂どおりきつかった。

晩飯はホテルの前のチベット料理屋さんに入る。
チベット特有のトゥクパという麺を頼んだつもりだったが、それかどうかは判断がつかなかった。
じゅんじいはトゥクパだと言い張っていたが、おれは違うと思った。
また、チベット独特のバター茶を飲んだ。これは本当に独特と言うしかない(笑)
個人的にはこれは飲めなかった。はっきり言っておいしくない。
コップ一杯も飲めないのに、3元で出てきたのはポットいっぱいのバター茶。
心苦しかったが、ほとんど飲まないで残してしまった。
いつもは残すのを嫌がるじゅんじいでも飲みきれないようだった。
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中国語で書かれたメニューの横には、チベット語でも載っていた。
よく見ると店のあちらこちらにチベットの置物や、チベットカレンダー?などがあり、自分たちがチベット文化圏に居ることを再認識できた。

チベットは激乾燥地域なので、一日に水を大量に取った方が高山病にもいいとガイドブックに書いてあったので水を買いに行く。
驚いたのが、このときもそうだったのだが、チベットでは硬貨が使えなかったことだ。
歴史上問題があるとはいえ、自分の国のお金に対して「それは何だ?」と問われたのには笑ってしまった。
「いや、中国のお金ですけど・・」
そんな感じで最後までいろいろあったが、また長い一日が終わった。

そして、この後、高山病で苦しむとは思いもよらなかったのだ。

連載、チベット旅行記、その参。

7月2日 火曜日 ツアーとメンバー探し

朝早くから、ガイドブックに載っていたバックパッカーが多く集まるという交通飯店へ行きツアーとツアーに必要なメンバーを探す。
交通飯店はこじんまりとしたホテルで雰囲気がよかった。ガイドブックどおり外国人がたくさんいた。
交通飯店の敷地内にはチベット行きのツアーを組んでいる旅行社が大小あわせて6件ぐらいあり、チベット行きのツアー募集していないところはなかった。
一軒一軒、ツアーの値段を聞いて周った。安いツアーを、と。
1500元ぐらいのが見つかるんじゃないかという安易な考えだった。
しかし、予想に反し、どの旅行社も3000元などと吹っ掛けて来た。
当初の予定よりも高すぎるので、チベット旅行自体に陰りが見えてきた。
「高すぎるよ。」「いけないんじゃないか。」

しかし、この日は運がよかった。

ツアー探しをしているときに、自分たちとは別にチベット行きのツアーを探しているらしき3人組がいた。
2人は男で、見た目はアジア系なのだが英語がぺらぺらのようだ。
もう一人は日本人かと思うぐらい垢抜けている綺麗な女性だった。
当然、お互いに同じ敷地内を行ったり来たりしているうちに意識するようになり、向こうも交渉がうまくいってないようにも見えたので、声をかけるか声をかけられるかはもはや時間の問題だった。
シャイな日本人からは声がかけられずにいると、うちのメンバーの女の子に向こうから話しかけてきた。
「チベットのツアーを探しているようだね。」たしかこんな感じだったはず。
見た目アジア系の男二人は、やはりそのままアジア系のアメリカ人だった。中国語も普通に上手だったので初めは留学生かと思ったけど、どうやら違うようだ。
まぁあまり語らずの二人だったので深くは突っ込まなかったが、中国旅行に来ているのは確かだ。
もう一人の綺麗な女性は、中国人でシーサンパンナ出身だった。この子は愛想がいい。
どういう経緯で出あったのかとか、いろいろ気になったけど、そういう深い話はその時の自分たちには必要がなかった。
彼らも自分たちもツアーに必要なメンバーが必要だったのでちょうど好いと、目的を果たすまでは行動を共にすることにした。
お互いに人数は確保したので、あとは安いツアーを探すだけだった。
彼らが持ってきた話と自分たちが聴いた話を照らし合わせ、より安く条件のいい旅行社を探す。
探すと言っても目の前にたくさんあるわけで、人数が多くなった分、強気の交渉に入るだけだ。
しかも一人は、中国人だから言葉に困ることもない。交渉は中国人女性に任せ、自分たちとアメリカ人2人は要求だけを伝える。
とにかく、「安く」することが目標だったので、アメリカ人たちは無茶な要求をどんどん言う。言ってみてダメならそれはそれなのだろう。
「ツアーガイドもいらない」「食事もいらない」「パーミット代もいらない」などなど。
自分たちの要求をすべて通すと、用は飛行機のチケット代だけにしろという極めて単純な要求になった(笑)
そうなのだ。中国当局が定めているツアーどおりにしてしまうと、ものすごく高いお金と相当の時間を必要とするのだ。
5人以上のツアーでなければダメ、飛行機のチケットは往復出なければいけない、旅行日程を決めなければいけない、パーミット代やパーミットが下りるまで時間が必要だとか。
(注意:2003年から人数制限がなくなったそうです。一人でもパーミット申請が出来るようです。)
(注意:現在、チベット行きのルートは、成都、ゴルムド、昆明からの3ルートらしいです。)

こんなんだからチベット行きを考えるときに闇ツアーという選択肢が頭をよぎるのだ。
闇の場合、中国人を装っていればいいだけなので、チベット行きの日本人や韓国人の間では有名。
ばれれば即、元居た場所に連れ戻されるだけらしい。罰金があるかもしれないとも。

個人的にはパーミットはあった方がいいだろうと思ったが、パーミットを当局に申請しそれが下りるまでの無駄な時間をアメリカ人2人は省きたいようだった。
旅行社の人と長時間話し合った結果、結局、パーミット代もガイドも3日間分のツアーも不必要と言うことになり、ほぼ飛行機のチケット代だけの料金になった。往復分ではあるが、帰りのチケットは破棄できる。お金は返ってこないが、これは旅行計画時からもう承知していたので諦めはついた。
3000元以上する料金が1700元(空港までの移動費含む)になり、しかも、明日すぐ出発できるということだったので6人はファイナルアンサーを出した。
パーミットが無い分、ばれれば成都に連れ戻されるというリスクは残った。ばれればオジャン。でも、やっぱり安さには勝てなかった。
その場で、料金の半分を支払い、残りは空港でということにし明日の朝、成都空港で集合ということにして6人は解散。

夜は、成都名物の〝小ロ乞〟(シャオチー)を食べた。
シャオチーは、美味しいというより、これでもかこれでもかと出てくるお皿の数が印象に残った。
味より語るべきは、その椀子蕎麦のようにどんどん出てくる皿。面白い。xiaochi.jpg


夜は出発の荷造りをし、早めに休む。

明日は、いよいよ神の地に降り立つ。

前振り長くてすいません・・m(__)m
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さぁ出発。

前回はチベットとの出会いを書いたので、今回から旅のお話しに入ります。

■チベット・成都篇■
チベットの旅へ行くと決めてからこつこつと準備した。
旅行人のガイドブックを日本から送ってもらったり、ネットでチベット関係のことを調べた。
ダライラマのこと、高山病のこと、文化、歴史のことなど、今まで知らなかったことがたくさんあった。
チベットへはパーミット(入境許可証)がないと入れないことも初め知ったし、そのパーミットを発行してくれるところがゴルムドと成都の2箇所しかないこともわかった。
はじめは青海省のゴルムドという街から陸路(バス)でチベット入りしようかと計画を立てたのだけれど、時間とお金を計算すると効率の悪いことがわかり、四川省の成都から空路でチベット入りするルートを選んだ。
そして、期末考試も終わり、夏休みに入った。

2002年6月30日(日)旅の始まり。

幸先は悪かった。
まず、成都までの寝台切符(硬臥)が手に入らなかった。
成都までは列車で24時間以上かかるので是非欲しいところだったが、中国の帰省ラッシュを甘く見たせいで買い逃し、仕方なく普通切符(硬坐)で乗ることになった。こうなってしまったら列車内で余った寝台切符を狙っていく作戦しかない。
さらに、出発当日、退房(部屋の片付け)も終わり、さぁようやく出発だというときに一緒にチベットへ行くメンバー(鄭州一家でお馴染みのじゅんじい)がパスポートを失くした。
しかし、当人は失くしていたことにも気づかずに出発ギリギリまでスポーツジムに行っていた。
もしあの時、親切な中国人が寮まで届けてくれなかったら彼はチベット行きを断念せざるを得なかったはずだ。
直前にそんなドタバタ劇もあったがなんとか切り抜け、夕方に鄭州を離れる。しかし、そこから待っていたのは寝台切符が手に入るまでの耐久レース。レースといってもただ椅子に座っているだけなんだがこれがなかなか堪える。しかも、夜越えはかなりきつい。音楽を聴き必死で耐える。結局は、寝台切符が手に入ったのだけれど、座席で12時間ぐらいは我慢した。

列車の中で日が変わり、7月1日(月曜日)。
ようやく成都に着いた。成都は湿気も多く暑かった。
成都へは以前一度だけ来たことがあったけれど、一度や二度じゃどこにいいホテルがあるのか解からなかったのでとりあえず、客引きの親父に着いていくことにする。相変わらず、訛りが酷い。
連れて行ってくれたホテルは親父の言うとおりまぁまぁ清潔で一人20元と激安だったのだが、条件は外国人であることをばれないようにする、なんていうなんだか危険な条件だった。
しかし、一人20元はかなりお得だったので、言葉さえ話さなければいいのならとここのホテルでファイナルアンサー。3人部屋で1人20元だった。あとで書くが、成都ではツアー探しなどで何泊するか解からなかったので安ければ安いほどよかった。そして、親父と入念に打ち合わせをし(笑)、フロントで誰だか知らない中国人の身分証明書を使って登記する。明らかに身分証明書の写真と顔が違うのにあっさり登記完了。あとは暫し休憩しつつ、これからの計画を練る。

ここでチベットへ行くためのちょっとした知識を。
当時、チベットへ入るには必ず中国公安局からのパーミット(入境許可証)がなければ入れないということに表向きはなっていた。しかも、個人向けには発行せず、必ず、どこかしらの旅行社で5人以上のツアーに入るべしという縛りもあった。そうすれば、パーミットは旅行社に向け発行されチベットへ行くことが出来る。当局も政治的に不安定な地域に誰がどういう目的で入ったのか把握できるということだろう。まぁ自分で取りに行かなくていい分、手続きもラクチンということになる。以上の理由から、個人でチベットへ旅行したい人はまずは旅行社を探しツアーを、面子が足りない人たちはメンバー探しをしなければいけないのだ。もし、面子が足りなければ行きたい人が出てくるまで待たなければいけないと言うことになる。
只今のメンバーは3人。少なくともあと2人は必要。どこで旅行社やメンバーを探せばいいのかは持ってきた旅行人のガイドブックと地球の歩き方に書いてあったので明日からなるべく安いツアーとメンバー探しをやろうということにし、飯を食べに街へ出た。ガイドブックには〝交通飯店〟がチベット入りを求めるバックパッカーが多く集まると書いてあった。とりあえず、明日は〝交通飯店〟に行ってみよう。

夜は四川名物麻婆豆腐を食べた。以前成都へ来たときにいった〝陳麻婆豆腐〟というお店が美味しかったのでそこへ直行。
四川人は辛い物好きの代名詞で有名で、中国の中では激辛地域に指定されている(笑)。とにかく、スパイシーな味付けが多い。
そこでまたパプニングが起こる(笑)。早くも旅の疲れが体に応えたのかメンバーの一人が食事中に突然吐いてしまう。「大丈夫か」とフォローしつつも自分は貰いゲロを我慢するのでやっとだった。言ってみれば満腹満足の状態でいきなりボディアッパーをくらった状態になった。まさにテロリストならぬゲロリスト出没。
その後、なんとか事態を収拾させ、ようやく長い長い一日(実質二日)が終わったのでした。
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チベットとの出会い。

今日から何回になるかわからないが連載形式で約3年前に行ったチベット旅行について記述していこうと思う。
旅行にはかなり行ったので他の旅行もその内、画像入りで載せます。
こっちでアップしたあと鄭州一家のほうにも載せようかな。
まぁとりあえず、その辺は後で考えるとして、まずはチベットとの出会いからでも書きますか。

それは一冊の雑誌でした。
中学生の時、夏休みに親戚の家へ遊びに向かう飛行機の中で人生初めてのチベットに出会いました。
その雑誌は、たしか週刊文春だったと思いますが、飛行機の中で暇を持て余した少年は、急に大人が読むような雑誌を手にとってみたくなった、ただそれだけが動機でした。それが後々自分にこんなにも影響を与えるようになるとはそのときは思いもよらなかった。
ただ、中学生の自分が背伸びをしたかった。それがきっかけでした。
きっかけがきっかけなだけに、雑誌の内容にはたいして興味はなく、手に取ったまではよかったが雑誌をパラパラとめくっても興味のあるような記事はなく、料理がどうだ、政治ではどうだ、といった子供にはとても興味がもてなさそうな内容ばかりだったのを覚えている。
けれど、たしか最後の一ページあたりにチベットが待ち受けていた。
ぱらっと捲ったときに一瞬チラッと見えた言葉があった。

「鳥葬」

鳥?葬式?鳥と葬式のコラボレーション?
初めてその単語を目にし、知識の浅かった自分には何のことだかさっぱり解からなかった。
しかし、その言葉には大いに惹きつけられ、その記事を読んでみることにした。
「チョウソウって読むのかな?」
内容は、記者が未だ秘境と呼ばれるに値するチベットでチベット人の昔ながらの葬式をレポするというものだった。
息子が母の亡骸を背負い鳥葬場に運ぶ、そこでラマと呼ばれる僧が死体を解体し鳥に食べさせて自然に還す。

鳥が人を食う??それがチベット人の葬式?!

衝撃だった。

それまでは人を埋葬するというのは、火葬と土葬しかないと思っていた。
火葬と土葬の文字面を見て、水葬というのはあるだろうとは想像できてはいたが、鳥が人を食べることが人を葬る儀式になりえるなんて洟垂れ小僧にはまさに痛恨の一撃でした。
親戚の家から戻ってきてすぐにチベットというのを地図帳で調べてみた。
チベットというのは何処にあるのか。中国の一部だと雑誌には載っていた。
ようやく見つけたチベットは中学生の自分には何時いけるのかわからないぐらい遠くにあった。
それでもいつかは行きたいと思っていた。

そして、ついで書きでなんだけれど、中国という大きな国が日本の隣にあることをはっきり意識したのもこのときだった。

今思えば、すべてはあの雑誌から始まっていたのかもしれない。
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